どうも和一です。
前回僕は、キリスト教では本来聖人に対する信仰を認めていないと話しました。
なぜ神は悪魔を作ったのか?
しかし、テレビなどでキリスト教徒が聖人に祈ったりしているのを見たことのある人もいるのでは?
これは一体どういう事なのでしょう。今回のテーマはキリスト教の聖人信仰についてです。
聖人への信仰は正しいのでしょうか?キリスト教の中で最も正しい筈の聖書の記述を見てみましょう。
まず、「祈りの対象」についての記述。 聖書によれば、イエスキリストはこのような教えをしました。
「あなたたちはこのように祈りなさい。『天にまします我らの父よ。願わくは…』」
つまり、
祈りは父なる主に対して行うべきなのです。
さらにイエスはこうも言いました。
「誰も私を通ってでなければ、父の元へ行けない。私の名によって私に願えば、私が叶えよう。」
つまり、イエスが我々と神の取り次ぎを行ってくれているという事。
さらに、
神との祈りの取り次ぎは、イエスキリストしか行えないという事でもあります。
さて、聖人への祈りには、聖人の絵画などがつきものです。これは正しい事なのでしょうか?
またもや聖書の記述
「どんな像も作ってはならぬ。その前にひれ伏してはならぬ。礼拝してはならぬ。」
と、あります。偶像崇拝禁止ではイスラム教が有名ですが、
キリスト教も基本的には偶像崇拝NGです。
聖人への祈りとは、聖人に「○○をお願いします」と直接祈ったり、「○○のお願いをお伝えください」と神に願いを取り次いでもらったりするものです。また、その際、絵画などを使う場合もあります。
「祈りの対象」と「偶像崇拝」について確認してみたところ、どうやら聖人信仰はキリスト教的には正しく無いような気がしますが……
しかし、どんなに理屈を並べても、聖人たちは民たちのヒーロー、英雄です。人々は聖人とされる者たちを信仰するようになり、祈りのための宗教絵画も生まれました。
これは、キリスト教全体としても悪いことではありません。聖人の物語は神の威光を民に知らせるのに もってこいですし、その行いは正しいキリスト教徒としての手本となるからです。聖人たちは「尊敬されるべき人々」なのでした。
しかしキリスト教は聖人信仰を完全に認めることは出来ません。ここでいう「完全に認める」とは聖人へ祈りを捧げたり、絵に対して祈りを捧げたりするのを認めることです。
そこで
『聖人崇敬』の考え方が生まれました。
『聖人崇拝』だと、聖人を神やイエスと同等かのように聖人に対して祈る事になり、さらには偶像崇拝をしていることにもなります。
そこで、あくまでキリスト教の聖人信仰は『崇拝』ではなく『崇敬』なのだ、としました。神にするように拝みはしないし崇拝でないので聖人絵画も正しい、という理論です。
やがて、キリスト教は聖人信仰について認め、詳しい事も定めるようになりました。
しかし『崇拝』と『崇敬』は客観的に見ると同じ物にしか思えず、いまだにキリスト教の神学者たちは聖人信仰をどう捉えれば良いのかに頭を悩ましているようです。
また、プロテスタントなど、聖人信仰を全く認めていない宗派もあります。
さて、聖人信仰が認められるようになりましたが、それはいくつかの問題を生みました。2つお話しします。
神の唯一性が揺らぐ
やはり崇拝でなく崇敬だと言っても、人々は聖人に祈りを捧げている時点で、少し多神教的ではあります。すると、本来の神の偉大さ、神への信仰心、教会の権威などが薄まる危険性があります。
現世利益との結び付き
キリスト教は本質的には神に救われ「永遠の命」を与えられることが目標の宗教です。しかし、一般の人はやはり日々の暮らしが重要。そうした人々は聖人に日々の安寧=この世界での利益を求めます。
聖人はひとり一人別の人間なので、個性、違いがあり、それは信仰においてはご利益の得意分野となります。つまり、聖人は本質的なキリスト教の目標を離れ、現世利益の追及と強く結び付いてしまうのでした。
すると、ますます多神教チックになってしまいます。ちょうど日本人が「学問の神様の○○にお祈りしよう!」と言うように「学問の聖人の○○にお祈りしよう!」となるわけですから。
前回、キリスト教は聖人信仰を本来認めていないと言いました。より正確に言えば、《聖人への『崇拝』は認めていないが『崇敬』は認めている。しかし疑問視する人もいて、プロテスタントでは崇拝も崇敬も認めていない。》となります。
ところで、「聖人は現世利益の追及と強く結び付いた」と書きました。ご利益を与える神がたくさんいないキリスト教世界では、天使も同じ役割を果たすようになります。…そして、悪魔も。
神への祈りが現世を越えた救いを与えるなか、人々は聖人、天使、悪魔に現世での救いを求めたのです。そして、そうした救いをより確かなものにするため、祈りの方法が民間で確立されていきます。そして、それが儀式魔術の世界になっていくのです。
今度はそういった世界のクリーチャーについて話していきたいです。
さいなら