こんにちは。和一です。
今回は、仏像の仏さま達の多様性についてまとめていきます。
「仏像」と言うと、興味の無い人にとってはどれも同じように思っているかも知れません。仏像は全部お釈迦様でしょ?くらいしか思ってないかも知れません。
しかし、それは大きな間違い!仏像には様々な種類があり、それぞれ現す意味や歴史背景、ご利益が違います。ここではそんな「仏像の多様さ」を語っていきます。
まず始めに、仏像の分類について話しましょうか。
仏像にはそれぞれ、階級と言いますか、チームと言いますか、そういった4つのグループが存在します。グループはそれぞれ『如来』『菩薩』『明王』『天』といって、この順番で仏教的に偉い(≒悟りに近い)ことになっています。
それぞれ見ていきましょう。
・如来
完全に悟りを開いた者です。お釈迦様が代表的ですね。完全な仏さまなので、その体には普通の人には無い様々な特徴があります。これは我々を救済するための特徴なのです。(大日如来など、例外もあります。)
・菩薩
悟りを求めて修行中の身の者です。お地蔵様は地蔵菩薩なので、このグループです。まだ完全に悟りを得た訳ではないので、我々の世界にやってきて修行しながら人々を救います。如来より近い存在です。
・明王
大日如来の分身です。仏さまが皆やさしく教えを説いたり、人々を救済したりしていては、人類は仏教の教えを軽視してどんどん堕落していくはずです。そうならないよう、大日如来は怒りの分身を生み出しました。
・天
様々な神様です。仏教では神々も人間のように、悩み、苦しむ存在とされます。そのため、仏教に帰依して修業したりするのです。主に、仏教を敵から守ったり打ち倒したりが役割です。
「仏像」と一言で言うと、仏像は一人の仏さまをかたどった像のように思われるかも知れません。しかしそれは間違い。仏像のモデル、つまり「誰」の像なのかは様々なのです。
まず始めに釈迦如来。これは俗にいう「お釈迦様」をかたどった像です。しかし時代が経つにつれ、仏教はもっと多くの人を救おうと考えました。そのためには、人々を直接救ってくれる「釈迦とは別の仏さま」も必要です。
阿弥陀如来はまさにそういった仏さまです。この仏さまは「自分の名前を呼んだ人々を救う」と誓った仏さまです。「南無阿弥陀」を唱えた人を、極楽に導くのです。しかし、人々は生きているときも病で苦しみます。医者のような仏さまも必要です。
そこで、薬師如来です。薬師如来は万病に効く薬を持っていて、人々の様々な病気を癒してくれる仏さまです。
こういった人々を救う仏さまの他に、全くタイプの違う仏さまもいます。
毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)は仏教の教えそのものの化身です。大日如来も宇宙の真理そのものの化身です。ちなみに、大日如来は字からも分かるように、元は太陽の神様でした。
このように、一言で「仏」と言っても、そもそも様々な者達がいます。今は如来についてでしたが、菩薩にも天にも色々な仏さまがいて、それぞれ別の仏さまなのです。
仏像が「誰」なのかについて話してきましたが、例え「同じ」仏さまをモデルにしていても「違う」仏さまになることもあります。同じなのに違う?どういうことでしょうか。
例えば、上の項目で不自然に触れなかった明王。明王は大日如来の分身なので、同じ仏さまなのかと言ったらやっぱり違います。
何故なら、明王は大日如来の「怒りの要素」を切り取った存在だからです。
宗教上の存在というのはこのように、ある大きな存在の一要素がまた別の存在として祀られることも多々あります。「同じ」なのに「違う」、「違う」のに「同じ」なのです。
他にも例を上げましょう。
元三大師は、如意輪観音の化身ともされた高僧で、今でも信仰されている存在です。今や多くのお寺にある「おみくじ」の原型を作った方でもあります。
元三大師は町で疫病が流行った時に自らが鬼のような姿になり、弟子にその絵を書かせます。その絵は、以後とてもありがたい厄除けになりました。
この「角ある大師」は「角大師」と呼ばれ、厄除けが得意な仏さまです。
さらに大師は、伝説的なエピソードを多く持っており、魔を滅するのが得意だったといいます。また、たくさんの豆のように小さな大師に分列して逃げたというエピソードもあります。これが「豆大師」です。
「如意輪観音」「元三大師」「角大師」「豆大師」同じとされながらも、別の性質をもつ仏さま達。仏像の魂入れの儀式では、そういったことも意識するそうですよ。
最後に、像というものは基本的にある特定の時間を切り取った表現なので、同じ仏さまがモデルでもどの時間の仏さまを表したかによっても、違いが出てきます。
お釈迦様なら、苦行中の痩せた姿、悟りを得て如来となった姿、完全に因果を絶ち横たわりながら現世から去る涅槃の姿。
また、今は修業中の菩薩達も基本的に如来になるとされているので、ある意味菩薩は未来の如来の昔の一面を切り取った仏さまとも言えます。
さて、作った時に同じ仏像だったとしても、時が経つにつれ違う性質になることもあるようです。つまり、軽んじられてきた仏さまが祟る仏さまになったりすることです。
しかし、そうはいってもあくまで人々を救う仏さま達がそう簡単に祟るのか?とも思います。
しかし、「人々を救う」「正しい道を示す」という大きな使命、役割がある以上、天罰として人々を祟ることもあるのはむしろ必然かも知れません。
特に天のグループの仏さまはいわゆる「神様」ですし明王のグループにいたっては元々が「怒りの」仏さま。人々を叱りつけることも当然あるでしょう。
つまり、仏像は「マジックアイテム」なだけあって、作られてからも別人のように振る舞ってしまうんですね。
仏像の仏さまを「多様さ」の観点で見てきた。やっぱり、宗教上の存在だからこその種類の増え方とかもあってとても興味深いものである。
ともあれ、「仏像」と一言で言っても、そこには「人間」や「生物」くらい広い範囲のものを示していたようだ。なんでも一くくりにしていては本質が隠れてしまうものである。
今回はこれにて。ノシ